

幕末の混乱で京都の町は焼け野原となり、さらに明治維新により国の中枢が東京に遷都したため、都としての機能を失い衰退の暗雲が立ち込めていました。しかし新たな近代産業都市として復活をかけ、内国勧業博覧会が誘致され、町は目覚ましく発展を遂げます。
文明開化は建築の分野においても大きな影響を及ぼし、明治も末期になると木造の町家においても総二階の家が建てられるようになります。ガスや電気も整備されて生活様式が劇的に変化するとともに、伝統的な町家の建築手法にも変化が出てきます。大正期に入ると、西洋の文化が庶民の間でも広がり、町家の中にテーブルで椅子に腰かける応接間がある和洋折衷のもが現れます。建材や工法技術の急速な発展により、一層近代的な特性を備えた住宅へと変化していきます。

「町家」が建てられたのは、昭和25年の建築基準法が制定されるまで。これまで主流であった「伝統工法」による建築が困難になり、新しい「在来工法」が主流となり今日に至ります。幸いなことに、太平洋戦争による被害が比較的少なかったため、現在まで古くからの町並みが残ります。
現在、市内中心部に残る町家の数は、平成22年度京都市の調査によると4万7千軒と言われています。しかし、その5%は空家であり、老朽化しているという調査データが出ています。建物の老朽化や、維持管理の難しさ、住人の不在などから手放す所有者が多く、今も尚、マンション用地やガレージへと姿を変える町家が後を絶ちません。









